三代目 赤松晴政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 16:56 UTC 版)
反浦上村宗派は、義村の子赤松晴政を密かに三代目城主に据えた。その後、村宗は細川家の内紛に加担し、細川高国方について各地を転戦する。晴政は大物崩れで村宗を背後から襲い、ついに倒した。しかし、その後も村宗の子の浦上政宗を服従させることはできなかった。天文7年(1538年)11月には出雲の尼子晴久が大軍を率いて播磨に侵攻し、晴政も摂津国に逃亡する。晴久は2年後に播磨国から撤退し、晴政は帰国したがその後も政宗との対立は続いた。晩年にはその子・義祐を擁立した政宗のため置塩から退去し、龍野城の赤松政秀の庇護を受けた。永禄8年(1565年)に死去する。
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