土方稲嶺
江戸中・後期の画家。因幡生。鳥取藩主池田斉邦の藩絵師。名は広邦、後に広輔。字は子直、号は虎睡軒、臥虎軒。江戸で南蘋派の宋紫石に学ぶ。円山応挙、谷文晁と交渉があったとも伝えられる。妙心寺雑華院・春光院など障壁画を残す。山水花鳥画に優れた。文化4年(1807)歿、67才。
土方稲嶺
土方稲嶺
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土方 稲嶺(ひじかた とうれい、(享保20年(1735年)または寛保元年(1741年) - 文化4年3月24日(1807年5月1日))は、江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだと言う。
- ^ 『因伯紀要』より。この後稲嶺は谷文晁を訪ね、文晁が稲嶺の画技を試そうと金屏風を出すと、稲嶺はそこに見事な山水画を描いて文晁を驚かせたと続く。ただし、こうした逸話は少し技量ある画家によくある常套句であり、むしろ因幡が日本の中心地から遠いことを思わせる(星野(1972)p.26。
- ^ 兵庫県教育委員会文化財課 兵庫県立博物館準備室『近世の障壁画(但馬編) 』 但馬文化協会、1982年7月、pp.90-91,140-141。
- ^ 花園大学歴史博物館ほか編集 『花園大学歴史博物館開館十周年記念 大法院展 真田家と佐久間象山ゆかりの文化財』 花園大学歴史博物館、2005年4月2日、pp.12-13、72-73。
- ^ 紙本墨画雲竜図 _とっとり文化財ナビ _とりネット _鳥取県公式ホームページ
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