土方稲嶺とは? わかりやすく解説

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土方稲嶺

読み方ひじかた とうれい

江戸中・後期画家因幡生。鳥取藩主池田斉邦の藩絵師。名は広邦、後に広輔。字は子直、号は虎睡軒、臥虎軒。江戸で南蘋派宋紫石に学ぶ。円山応挙谷文晁交渉があったとも伝えられる妙心寺雑華院春光院など障壁画を残す。山水花鳥画優れた文化4年(1807)歿、67才。

土方稲嶺

読み方ひじかた とうれい

江戸中・後期画家因幡生。鳥取藩主池田斉邦の藩絵師。名は広邦、後に広輔。字は子直、号は虎睡軒、臥虎軒。江戸で南蘋派宋紫石に学ぶ。円山応挙谷文晁交渉があったとも伝えられる妙心寺雑華院春光院など障壁画を残す。山水花鳥画優れた文化4年(1807)歿、67才。

土方稲嶺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/04 05:22 UTC 版)

土方 稲嶺(ひじかた とうれい、(享保20年(1735年)または寛保元年(1741年) - 文化4年3月24日1807年5月1日))は、江戸時代中期から後期の絵師因幡出身。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだと言う。


  1. ^ 『因伯紀要』より。この後稲嶺は谷文晁を訪ね、文晁が稲嶺の画技を試そうと金屏風を出すと、稲嶺はそこに見事な山水画を描いて文晁を驚かせたと続く。ただし、こうした逸話は少し技量ある画家によくある常套句であり、むしろ因幡が日本の中心地から遠いことを思わせる(星野(1972)p.26。
  2. ^ 兵庫県教育委員会文化財課 兵庫県立博物館準備室『近世の障壁画(但馬編) 』 但馬文化協会、1982年7月、pp.90-91,140-141。
  3. ^ 花園大学歴史博物館ほか編集 『花園大学歴史博物館開館十周年記念 大法院展 真田家佐久間象山ゆかりの文化財』 花園大学歴史博物館、2005年4月2日、pp.12-13、72-73。
  4. ^ 紙本墨画雲竜図 _とっとり文化財ナビ _とりネット _鳥取県公式ホームページ


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