国際博覧会パビリオンのコンペ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:39 UTC 版)
「フィンランドの建築」の記事における「国際博覧会パビリオンのコンペ」の解説
国際博覧会における各国のパビリオンは参加国それぞれにその国に対する印象が含まれる作品を(経済的と文化的な理由で国を宣伝する手法として)展示する機会を与えている。フィンランドが国際博覧会に参加する理由には経済的、政治的、国家文化的な一面がある。その一例としてはフィンランドがロシアの統治下にあった1900年に行われたパリ万国博覧会でフィンランドの独立に関する政治的な声明を出しつつ、フィンランドに関する民族主義的な声明も出した。このような声明を出すのにフィンランドの建築家は重要な役割を演じた。フィンランドは1851年以降主要な国際博覧会に参加しており、初参加はロシア館の一部として1851年ロンドン万国博覧会への出展である。フィンランドが自国でパビリオンを持ったのは10回であり、うち8回はコンペで選ばれた:1889年パリ万国博覧会(フランスの建築家による設計)、1900年パリ万国博覧会(コンペの結果、ゲセッリウス、リンドグレン、サーリネン(英語版)の設計が採用された)、1930年アントワープ植民地博覧会(英語版)(コンペの結果、エリク・ブリュッグマン(Erik Bryggman)の設計が採用された)、1935年ブリュッセル万国博覧会(コンペなしでアールネ・ヒュトネン(Aarne Hytönen)とリスト=ヴェイッコ・ルーッコネン(Risto-Veikko Luukkonen)の設計が採用された)、1937年パリ万国博覧会(コンペの結果、アルヴァ・アールトの設計が採用された)、1939年ニューヨーク万国博覧会(コンペの結果、アルヴァ・アールトの設計が採用された)、1958年ブリュッセル万国博覧会(コンペの結果、レイマ・ピエティラ(Reima Pietilä)の設計が採用された)、1992年セビリア万国博覧会(コンペの結果、モナルク(Monark)の設計が採用された)、2000年ハノーヴァー万国博覧会(コンペの結果、サルロッタ・ナルユス(Sarlotta Narjus)とアンティ=マッティ・シーカラ(Antti-Matti Siikala)の設計が採用された)、2010年上海国際博覧会(コンペの結果、JKMMアルッキテヘディト(英語版)の設計が採用された)。これらのパビリオンは1992年セビリア万国博覧会のフィンランド館を除いて全て取り壊された。その後、フィンランド館はセビリア建築家協会(Fundación FIDAS)の本部として再利用された。
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