国語調査会と森鷗外
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1921年(大正10年)に新しく設けられた臨時国語調査会は、「当用漢字」や「現代かなづかい」に似たものを大正13年(1924年)12月24日に満場一致で可決した。 対して山田孝雄は1925年(大正14年)2月にこれに反対する論を書き上げた。鷗外はこの時の国語調査会の会長であったが、1922年(大正11年)6月に辞職した。鷗外は危篤(1922年〈大正11年〉 7月9日死去)に際して、再三濱野知三郎を通じ山田と面会しようとした。山田の私用でかなわなかったが、7月8日に鷗外の危篤と遺志が伝えられる。約1か月前、6月上旬の辞職前にも山田と濱野は面会しており、その時は「同問題の將來をいたく憂慮し、慷慨淋漓たるものあり、終に旨を濱野に含めて不肖に傳へらるる所ありき」とのことであった。臨終に際しての鷗外の苦心、憂慮を取り上げ、山田は以下のような文面で調査会を非難した。「森博士の名にかりて私見を逞くせむの卑劣なる考あらむや。ただ同博士の生死の際に國語問題に非常なる憂慮を費やされしその誠意は後進たる余が責務として何の時かこれを世に公に傳へおかざるべからざる責任を深く感ずる」。以上は「森林太郎博士苦心の事」によるが、これは假名遣意見と同じ明星に掲載された。 この掲載を受けて、芥川龍之介・藤村作・美濃部達吉・松尾捨治郎・高田保馬・本間久雄・木下杢太郎などにより次々と反対論が発表され、国語問題は社会問題となった。この問題は帝国議会で取り上げられ、再びの議員の反対を受けて、戦前における表音的仮名遣の論は表舞台から消え、表音主義は戦後に再び台頭する。
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