四剣豪とその独立
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「マキノ・プロダクション」の記事における「四剣豪とその独立」の解説
マキノ・プロダクション設立2周年を迎える同年2月には、市川右太衛門が同社を退社、同年4月には市川右太衛門プロダクションを設立、東亜キネマと配給提携し、第1作『侠骨漢 笑ふな金平 前篇』(監督押本七之助)を同年4月29日に公開している。 「市川右太衛門プロダクション」を参照 その2か月後の同年4月、大阪・明治座の名題だった片岡千栄蔵を直木三十五がスカウト、千栄蔵は1923年(大正12年)に小笠原プロダクションが製作した現代劇『三色すみれ Love in Idleness』(監督小笠原明峯)に主演、「植木進」の芸名ですでに映画界デビューを果たしていたが、マキノで名を片岡千恵蔵と改め、同年5月6日に公開された『万花地獄 第一篇』(監督中島宝三)に主演、同社のスター役者となる。千恵蔵に1日遅れて、同門の女形、嵐和歌大夫がマキノ省三の誘いで月給800円(当時)の高待遇で入社、名を「嵐長三郎」(のちの嵐寛寿郎)と改め、同年4月29日に公開された『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』(監督曾根純三)に主演して映画界にデビュー、「鞍馬天狗」役で一躍人気スターとなる。阪東妻三郎、市川右太衛門が去ったのちも、片岡千恵蔵、嵐長三郎の若手が月形龍之介とともに、それぞれ独自の立ち回りを工夫して、マキノ剣戟黄金期を支えた。 同年5月13日には、「不世出の脚本家」と呼ばれた山上伊太郎が月形龍之介のために書き下ろした『悪魔の星の下に』(二川文太郎監督)を製作・公開する。これがいわゆる「悪魔派」映画の大流行を呼び、以降、殺陣に残酷・怪奇趣味が加わった。 1928年(昭和3年)3月、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムが同作の編集中に失火、牧野の本宅と大量のネガ・フィルムが焼失し、失意のどん底に墜ちたマキノ省三は病床に就く。 そんななか、同年5月、片岡千恵蔵が独立、嵐長三郎も名をマキノに返して「嵐寛壽郎」を名乗って独立、マキノ映画は相次いで看板スターを失うこととなる。さらに山口俊雄、中根龍太郎、市川小文治、山本礼三郎もこれに続いて脱退、全員が独立プロを興しているが、どれも3-4ヶ月で消滅し、存続できたのは片岡千恵蔵の千恵プロと嵐寛壽郎の寛プロの二つだけだった。 「片岡千恵蔵プロダクション」および「嵐寛寿郎プロダクション」を参照
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