和菓子の大衆化、俗化と川端道喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)
「川端道喜」の記事における「和菓子の大衆化、俗化と川端道喜」の解説
明治時代になると砂糖の輸入が自由化されたため、初期投資が比較的少なくて済む和菓子製造業に参入する業者が増加していく。国内外の博覧会、展覧会、共進会等に和菓子を出品して賞を獲得したり、洋菓子の技術を応用した新しい和菓子が考案されるなど、和菓子業界に新たな動きが進んでいった。 その一方で京都伝統の和菓子の俗化も進んでいった。和洋折衷の「新しい和菓子」は値段も比較的安価で、和菓子製造業者の増加と相まって「自称名物」が続々と誕生していく。大正時代に入ると茶道の流行もあって京菓子は隆盛の時代を迎え、売り上げも好調であった。しかし内容的には更に俗化が進み、ともすると伝統が忘れ去られるようになった。 昭和時代になると、時流に流され、俗化が目立ってきた京菓子の在り方に対する反省と今後を見据え、十四代川端道喜らを中心として「京都菓子研究会」が創設された。「京都菓子研究会」は、全国各地の銘菓を取り寄せて研究会を開催したり、芸術家とのコラボ企画を行ったり、工場の視察を実施するなど、京菓子の品質向上を目指した活動を行った。しかし戦時下の情勢悪化に伴い、活動の中断を余儀なくされた。
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