告白、批判、死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 12:33 UTC 版)
1984年、ヘボンは多数の贋作を認めたが、告白の中で美術界を非難し、あたかも自分は何も悪いことはしていないという雰囲気を報道を使って作り出した。 1991年に出版された自伝『Drawn to Trouble』の中でも、ヘボンは美術界、批評家やディーラーたちを攻撃し続けた。ヘボンは、専門家と称する連中の大部分は利益を得るための計略に沿って役割を演じることばかりに熱心だとして、彼らを欺くことができる自分の能力について大っぴらに語った。ヘボンはまた、本物であると証明されているとされる作品の中にも、自分が作った贋作があると主張した。また、この当時には、サー・アンソニー・ブラントとは愛人関係になったことはないと述べた発言も記録されている。 著書中のあるページで、ヘボンはジャン=バティスト・カミーユ・コローの『アンリ・ルロワ (Henri Leroy)』の贋作と本物の素描を並べて示し、「美術の専門家」たちに違いを説明するよう挑戦を投げかけていた。 1996年1月8日、著書『The Art Forger's Handbook』のイタリア語版が出版された直後に、エリック・ヘボンはローマの路上で、頭部を鈍器で何回も殴打された状態で倒れているところを発見された。彼は、1月11日に死亡した。 多くの美術品が、その出所がヘボンとされているが、中には著名なコレクションの所蔵となっており、議論が続いているものもある。カリフォルニア州ロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館やニューヨーク市のメトロポリタン美術館は、ヘボンの贋作を展示していないとしているが、これにはヘボン自身が異論を唱えていた。
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