吟味の進行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
幕府評定所は騒動の関係者40余名を江戸に呼び出し、吟味が進められた。評定所で吟味がなされるきっかけとなった金森家と幕府要人との癒着については、石徹白騒動の吟味に関しては、寺社奉行であった本多忠央が事件処理について金森家に便宜を図ったことについては、寺社奉行間で合議を行った結果であることを評定所側に認めさせるなど、事件の真相糾明に熱心であった田沼意次の努力にも関わらず不十分なものに終わった。 しかし幕府要人以外の金森藩関係者、騒動の当事者らに対する吟味は厳しく行われた。まず宝暦8年9月7日(1758年10月8日)、杉本左近、石徹白豊前らの尋問が行われたのを皮切りに、宝暦8年10月16日(1758年11月16日)以降、宝暦8年の年末にかけて金森藩の寺社奉行、根尾甚左衛門を始めとする郡上藩役人、騒動のきっかけとなった威徳寺の看坊であった恵俊といった関係者への尋問が行われた。厳しい尋問の中で体調を悪化させる関係者が続出し、宝暦8年11月26日(1758年12月26日)には郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門が牢死し、遺体は罪人扱いの取捨処分となった。そして宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には寺社奉行手代の片重半助も牢死した。その他、石徹白騒動関係者では郡上藩大目付の津田平馬も牢死している。 吟味の中で評定所が最も頭を痛めたのが、石徹白が果たして吉田家の支配であるのか白川家の支配であるのかについてであった。宝暦8年11月8日(1758年12月8日)に、評定所は京都町奉行に対し、石徹白が吉田家支配か白川家支配かについて、両家に問い合わせるよう調査を依頼した。宝暦8年11月20日(1758年12月20日)には京都町奉行から吉田家は諸神社全て支配している旨の回答があり、一方、白川家からは支配下の神社は一社もない旨の回答がなされたとの報告がなされた。しかし騒動の吟味の過程で杉本左近の曽祖父が白川家の門弟であったことが明記された書状が出て来たため、神祇伯である白川家との関係を憂慮した幕閣は、事実認定を慎重に進めたが、結局、評定所は宝暦8年12月15日(1759年1月13日)、問題の書状は私文書である上に疑義があるとし、公に確認した京都町奉行の報告を採用し、石徹白は吉田家支配であるとの結論を出した。 騒動関係者に対する多くの尋問、書類の調査、そして8回に及ぶ評定所での吟味の結果、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)、評定所は郡上一揆と同一日に石徹白騒動の判決を言い渡した。
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