台湾銀行の再建に失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 06:21 UTC 版)
当時台湾銀行は鈴木商店の機関銀行となっていて、戦後恐慌・軍縮・海運不況・関東大震災・大豆取引失敗・対外為替相場崩落で鈴木商店が経営難になると、台湾銀行がどんどん融資して援助したが、その融資が固定化して台湾銀行の資金繰りが困難になっていった。1922年(大正11年)には台湾銀行の貸出の三割が鈴木商店になった。日本銀行総裁井上準之助と高橋是清は台湾銀行経営改善のために、1923年(大正12年)3月に森広蔵を台湾銀行の副頭取に据えた。森は1925年(大正14年)8月に頭取になると、金子直吉を鈴木商店の経営から排除して学卒派の高畑誠一に経営再建を託そうとするが、鈴木商店の金子派が猛反対したので実現しなかった。1926年(昭和元年)には台湾銀行の貸出の六割以上が鈴木商店になった。1927年(昭和2年)3月に金融恐慌が始まると、三井銀行からのコールマネー(短期資金)の供給がなくなり台湾銀行は資金繰りに行き詰まり、日本銀行の緊急融資も拒否されて、鈴木商店への貸出を中止したので、4月に鈴木商店が倒産した。その影響で台湾銀行も破綻したので8月に引責辞任し、それから一年半は無職となり無聊をかこった。
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