台湾経済の分業形態の大転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:30 UTC 版)
「農業は台湾、工業は日本」の記事における「台湾経済の分業形態の大転換」の解説
1936年(昭和11年)9月2日、台湾総督に小林躋造が就任した。その1年後日中戦争が勃発したので、小林は情勢の変化に対応するため、1939年(昭和14年)5月19日、台湾の「皇民化、工業化、南進基地化」という3項目の政策を打ち出した。既に1934年(昭和9年)には日月潭水力発電所(中国語版)が完成しており大量かつ廉価な電気の供給が可能となっていた。そのため金属工業、化学工業、機械器具工業、窯業などの新興工業が発展した。元々盛んだった糖業が中心だった農産加工業にも、アルコールや製麻業が加わった。1941年(昭和16年)総督府が「臨時経済審議会」を召集し、「農業は南洋、工業は台湾」との方針を決定し、これまでの「農業は台湾、工業は日本」の方針は大転換されるにいたった。この「工業化」の実態は戦争目的のために推進されたもので、軍需産業に大きく偏重していた。統計数字を見ると、伝統的農産加工業(糖業、パイナップル缶詰製造業)の全工業生産に占める割合は1930年代後半から明らかに下降し、1940年(昭和15年)には61パーセントに落ちた。逆に化学工業と金属工業の割合は大幅に増え、同年には両者の合計は約20パーセントを占めるようになった。
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