台湾期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:03 UTC 版)
1967年10月、香港から台湾に移住する。その背景として、文革が香港まで波及していたこと、台湾で文革に対抗する「中華文化復興運動(中国語版)」が提唱されたこと、台湾で1962年に亡くなった胡適に代わる人材が求められていたこと、などがあった。(先立って1952年にも台湾を訪れており、そのときの講演録が『中国歴代政治得失(中国語版)』のもとになっている。) 台湾では、蔣介石の支援で台北市士林区郊外に建てられた「素書楼」(2001年から「銭穆故居」と称される)に住んだ。 1968年、中央研究院院士に選出される(1948年の時点で候補に挙がっていたが、李済(中国語版)ら古参の院士が反対していた)。1969年、張其昀に再び招かれて、中国文化大学(当時の名称は「中国文化学院」)の教授となり、1986年まで務める。同時に蔣復璁(中国語版)に招かれて、故宮博物院の研究員を兼任する。 1989年、当時立法委員だった陳水扁らが、素書楼の土地が公有地であることを問題視し、銭穆に退去を迫った(素書楼事件)。1990年6月、素書楼を去って台北市中正区の市街地(杭州南路)に移住する。同年8月30日、逝去。享年95。 1992年、妻の胡美琦により、太湖湖畔の洞庭西山(中国語版)に葬られた。2000年前後、馬英九は素書楼の保護を推進し、2010年に政府を代表して事件について謝罪した。
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