台湾からの労働者と沖縄県出身の労働者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
「北大東島のリン鉱山」の記事における「台湾からの労働者と沖縄県出身の労働者」の解説
1918年、北大東島でリン鉱石の採掘が始まると東洋製糖は島内で働く労働者を募集した。当初、北大東島で働いた鉱夫のうち、約100名が台湾からの労働者であった。台湾からの労働者は力が強く働き者が多かったが、無断欠勤を繰り返す質が悪い労働者もいた。台湾出身の労働者と沖縄出身の労働者は互いに仲が良くなく、無断欠勤を繰り返す台湾からの労働者を咎めたことがきっかけで騒動が起きた。お互い言葉が通じなかったことも騒ぎが大きくなった一因であり、結局1年足らずで台湾からの労働者たちは送還されることになった。 その後、鉱夫など鉱山関係の労働者は大部分を沖縄本島から募集するようになった。会社側とのトラブルや鉱夫同士の喧嘩もあったが、沖縄県出身の労働者たちの多くは勤勉で貯蓄にも努めたため、契約期間満了時にはかなり多額のお金を持って帰郷する者が多く、鉱山等での就労希望者は増加した。。ところで北大東島ではリン鉱山が主産業であるがサトウキビ栽培も行われていた。つまり鉱業と農業の並立状態であったため、外部からの労働者を鉱業と農業とに振り分けねばならなかった。リン鉱石採掘は作業能率向上の狙いから主に請負作業制を取ったのに対し、農業は定額制を取っていて、労働者たちはすぐに現金収入を得られるリン鉱山勤務を希望する傾向が強かった。そこで会社側は製糖が行われない時期には余った農業労働者をリン鉱山に振り向ける等の雇用調整を行った。しかし製糖の繁忙期と鉱石搬出の繁忙期は時期的に重なっており、労働力の調整は困難が多かった。やがて鉱夫たちの中には契約期間を過ぎても北大東島に留まって鉱山労働を続け、家族を呼び寄せたり独身者は妻帯する者も増えたため、労働力の定着性が高まって大規模な募集を掛けずに済むようになった。
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