古文尚書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:39 UTC 版)
漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある: 孔子家伝本 孔子の十世の孫である孔安国が「古文尚書」を今文に写定すると、「今文尚書」にない十余篇があった(『史記』儒林伝)。 中古文本 劉向が欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と校訂する際に用いた、宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」のこと(『漢書』芸文志)。 河間献王本 古典収集を好んだ河間献王劉徳が伝えた「古文尚書」のこと。 張覇百両篇本 張覇が伝えた102篇の「古文尚書」が世間に伝わっていた。成帝のとき、これを宮中の書と比べたところ偽書であると分かった(『漢書』儒林伝)。 劉歆が宣揚した孔子壁中本 劉歆の「移太常博士書」に、景帝のとき、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から「古文尚書」を得た。これは「今文尚書」には存在しない16篇を含んでおり、後に孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある(『漢書』楚元王伝)。 それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。 前漢の宣帝のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、新の王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された。
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