古代の富士山噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 06:17 UTC 版)
一方、日本の古代史は1万 - 5000年前に開始されたとされる新富士火山の活発な活動期に当たる。当時の人々にとっては、富士山の山頂火口から立ち上る盛んな噴気のありさまは日常的な光景だった。奈良時代後期に成立した『万葉集』には、720年(養老4年)頃東国に赴任していた高橋虫麻呂が富士山を讃えて詠んだ長歌が載せられ、歌の中に以下のような一節がある。 (前略)富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ(後略)(富士の峰は流れる雲を遮り、鳥さえも飛び上がることはできない。燃え上がる火は雪で消され、降る雪は火で消されていく) — 高橋虫麻呂、万葉集 『万葉集』には、恋焦がれる胸中を富士山の噴気にたとえて詠み上げた歌が数多く見出されている。富士山では噴気活動のみならず噴火活動も頻発し、『続日本紀』の781年(天応元年)の項には「富士山で灰が降り、山麓の草木が枯れた」との記録がある。平安時代の800年 - 802年(延暦19年 - 21年)には延暦大噴火が発生。東側斜面に側火口の「西小富士」を形成し、鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩を噴出した。さらに大量の降下火山灰により、当時の東海道だった足柄路が通行不能となっている。 繰り返される噴火災害を受け、朝廷では富士山に神位を捧げ、神を「懐柔」することで事態の沈静化を図っていた。
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