古代の市民共同体と近代市民社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:26 UTC 版)
「市民社会」の記事における「古代の市民共同体と近代市民社会」の解説
西洋古代における市民共同体としては、古代アテネやローマが例として挙げられる。この時代の「市民」とは、重装歩兵としてポリスの防衛にあたり市政に参加するような市民権保有者・自由民を指しており、決して都市の全構成員を指していたわけではなかった。中世の身分制社会においては、各人が権利において対等であることはなく、こうした市民共同体の伝統は失われていた。 市民共同体の復活は、イギリス・フランスにおいては市民革命の成功によって成される。イギリス革命においては中世以来の身分制議会が存続するなど過去の伝統社会も尊重されたが、フランス革命ではアンシャン・レジームを否定し、旧来の身分制社会を完全に解体して人権宣言を掲げた。そのため、フランスのほうがより理念が純化した形で市民社会を築き上げた。すなわち、自由かつ権利において対等な市民の結合という形態により合致する。この新たに形成された市民共同体が国家と結びついて国民共同体が形成された。 近代市民社会においては、個人の自由が保障されることが、その成立の要件となる。すなわち、各個人(市民)が自らの政治的主張・宗教的立場などを他から強制されないことや、各個人が自らの財産を自由に処分でき(私有財産制)、商活動の自由が保障(ギルド廃止など)されていることなどが求められる。イギリス・フランスでは市民革命を通じて市民が政治の主導権を握ったため、これらのことを政府が保障することになった。
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