古代の宿駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 14:34 UTC 版)
古代律令国家は五畿七道と呼ばれる行政区画を採用し、それぞれの道と都を結ぶ同名の主要幹線には駅家(うまや)と呼ばれる宿駅を置いた。音羽町地域は行政区分としては東海道に属し、幹線道路としての東海道も通過していた。 伊場遺跡から出土した木簡には「宮地駅家」の名が記されている。この駅家の位置は必ずしも特定されていないが、宮路山山麓には宮道天神社(みやじてんじんしゃ)の拝殿が位置し、この拝殿の所在地が「宮路」であることから、この付近に宮地駅家が存在した可能性もある。 この頃の東海道は江戸時代の東海道とは経路が異なり、宮路山を通過するのが一般的であった。菅原孝標女は宮路山を超えた時の様子を、「あらしこそ 吹きこざりけれ 宮ぢ山 まだ紅葉ばの 散らでのこれる」と『更級日記』に綴っている。また、鎌倉時代に書かれた『東関紀行』には、「矢矧といふ所を出でゝ、宮路山越え過ぐる程に、赤坂といふ宿あり」との記述がある。他に、『海道記』や『十六夜日記』などからも、当時の様子を窺い知ることができる。
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