反対運動とシャープビル虐殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 13:08 UTC 版)
「アパルトヘイト」の記事における「反対運動とシャープビル虐殺事件」の解説
代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラが所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)などがあげられる。1949年にはウォルター・シスル、オリバー・タンボ、ネルソン・マンデラの3人がANCの執行部に選出され、以後の黒人解放運動の指導権を握った。1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択される。これは非人種的なものであり、黒人民族主義ではなく自由主義を基本においたもので、以後の反アパルトヘイト運動の旗印となった。しかし、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。また、自由憲章制定時に主導権を握れなかったアフリカ民族主義者はアフリカ民族会議から分党し、1959年にはパンアフリカニスト会議(英語版)(PAC)が結党された。 1960年にはパス法に反対する集会をPACが企画し、ANCも合流。そこに集まった群衆に軍が発砲し、シャープビル虐殺事件が勃発した。これにより、政府は両党を非合法化し、活動家を次々と逮捕していった。マンデラは1962年、シスルは1963年に逮捕され、ケープタウン沖のロベン島の刑務所へと送られた。生き残った活動家は亡命し、テロ活動をおこなったものの、活動自体はやがて沈静化していった。
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