原稿紙の升目原爆忌では埋めぬ
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評 言 |
遭遇してしまった負の体験を、人々に語りたくなるのが一般の想いかもしれない。けれどもこの作者は、原爆の被爆者であることを黙しつづけていた。いまも、心の奥底にある熾烈ないたみを、自己の肉体と精神風景のなかにしっかりと存在させながら、自己の内部で浄化させようとしているのであろう。 それでは雄雄しいという、万葉の時代より流れている勇ましさ・大陸的な重厚さとともに、繊細に他の人々を気遣う優しさ・真実味とのとけあって一つになった、人間性の高さを示している。自らすすんで、修行の道も歩んでいると聞いている。 「ヒロシマに残したまゝの十九の眼」から、多くの歳月を生きて表現されたこの作品、これまで貫いてきた考えに、いささかの変化も生れていないことが理解される。原稿用紙の升目の一つでさえも、原爆忌に関することでは埋めないと、十九歳のときから深く蔵してきたと同じ決意を放っている。いや、より透明になっている自己と、最後まで妥協することのできない大事なものへの意志を、より強くしているのかもしれない。そのことを、自分に対して明確にしている作品なのかもしれない。生死を超えて貫くと‥‥ さらに、原爆忌という一つの具象を示しての、反骨精神の必要性を示唆しているようにも思われてくる。俳句にかぎらず詩歌には、容易に人に従わない気骨、独創性を追求する信念が継続していなければならない。予定調和では、ほんとうの俳句は維持できないのであろう。 升目一つ一つを、鮮烈で新鮮な発想をもって活かしていくこと。これがこの句の本意かもしれない。 |
評 者 |
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備 考 |
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