原敢二郎とは? わかりやすく解説

原敢二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/20 16:40 UTC 版)

はら 敢二郎 かんじろう
生誕 1880年11月22日
日本岩手県
死没 (1948-04-23) 1948年4月23日(67歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1900年 - 1931年
最終階級 海軍中将
除隊後 東亜研究所理事
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原 敢二郎(はら かんじろう、1880年明治13年)11月22日[1][2] - 1948年昭和23年)4月23日[1][注釈 1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

岩手県出身[1][2][3]。旧盛岡藩士・原勝多の三男として生れる[1]盛岡中学校中退を経て、1900年12月、海軍兵学校28期)を卒業し、1902年1月、海軍少尉任官[1]日露戦争では「筑紫分隊長心得として出征した[2]。「千代田」航海長などを経て、海軍大学校乙種学生、専修学生として学ぶ[1]第1艦隊参謀、「壱岐」航海長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を卒業した[1][3]

三笠」航海長、舞鶴鎮守府参謀、海軍省軍務局員、オランダ駐在、「千早艦長、欧州出張、軍務局第1課付、「出雲」艦長、教育局第1課長、「陸奥」艦長、第1艦隊兼連合艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級[1][2]軍令部第1班長、第5戦隊司令官などを務め、1928年12月、海軍中将となった[1][2][3]。軍令部出仕、鎮海要港部司令官、軍令部出仕などを歴任し、1931年3月、予備役に編入された[1][2][3]

のち、1938年9月1日に発足した企画院東亜研究所理事に就任[1][4]1945年9月まで務めた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

位階
勲章等

親族

脚注

注釈

  1. ^ 『日本海軍将官辞典』305頁では4月26日。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典』第2版、243頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本海軍将官辞典』305頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』93頁。
  4. ^ 東亜の人文・自然を研究、会長は近衛首相『東京朝日新聞』1938年(昭和13年)9月2日夕刊
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
  6. ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
  7. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  8. ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
  9. ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
  10. ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。p11上段
  11. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  12. ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。
  13. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。p11

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。




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