占領期のフランス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 23:53 UTC 版)
詳細は「ナチス・ドイツによるフランス占領」を参照 フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、フィリップ・ペタンに対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、1940年7月10日の憲法的法律が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。10月にはペタンはドイツの「協力」(コラボラシオン)を表明し、またヴィシー政権のフランス国民にもそれを求めた。第二次世界大戦期のフランス世論の研究者ピエール・ラボリ(フランス語版)は、当時のヴィシーでの世論も、反ドイツを掲げてもいたペタンが、簡単に本心からドイツに協力するとは考えておらず、ペタンがその名を高めたヴェルダンの戦いと同じような活躍を期待していたと指摘している。 外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった。また、休戦協定によって軍隊などは武装解除がなされ、150万人もの青年を捕虜としてドイツに残しておかなければならなかった上、1日あたり4億フランの占領費の負担を求められた。さらにドイツ占領地域、イタリア占領地域と自由地域との往来は禁止され、ヴィシー政府の権限がフランス全土に及ぶことを阻止した。
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