占領期における活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 08:08 UTC 版)
日本の敗戦によって連合国軍による占領が始まると、立川飛行場には多数の米軍将兵が駐屯するようになった。当時の中野は、朝鮮姓を名乗る第三国人として、いち早く米軍相手の事業を手がけ始めた。警察関係にも人脈を築き、当時の国家地方警察立川警察署の有力者に強い関係を持っていた。 戦後の混乱期に、当時の立川の有力地主であった中野家と養子縁組した孫應棟は、以降、中野応棟、さらに中野喜介として知られるようになる。 中野は、立川駅北口側の曙町にあった旧日本陸軍の将校宿舎を借り受け、ここに数百名の女性を集めて米軍将校相手のキャバレー「立川パラダイス」を開業した。「パラダイス」は開業の翌年1946年には閉じられ、その跡地には1947年に、中野を理事長とする学校法人立川学園が「立川専門学校」を開設した。この学校は、1950年に私立の「立川短期大学」へと昇格し、後に都に移管されて東京都立立川短期大学となった。 また、地域の商店街の組織化の中心となり、1947年には市内の17の商店会を束ねた立川市商店会連合会(後の立川市商店街連合会)を結成し、その初代理事長となった。 中野は1950年に競輪場の建設を目指して事業を興したが、反対運動が起きて計画は中止に追い込まれた。しかし、この構想は、市が事業を8千万円で買い上げ、翌1951年の市営による立川競輪場の開設につながった。
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