南北間の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:15 UTC 版)
浜通りの交流圏や歴史的風土は、夜ノ森を境にして異なる。「夜ノ森」という地名の由来は、戦国時代に岩城氏と相馬氏が領有権を争って「余(=我)の森」を主張し、その境界線となったことに由来すると言われている。同様の由来から、富岡には「小良ヶ浜」(おらがはま)、大熊には「小良浜」(おらはま)という地名も存在する。 夜ノ森以南 7世紀中葉には多珂国の領土だった。 平安時代中葉から戦国時代までは岩城氏の領土で、江戸時代には磐城平藩の領土であった。 岩城氏に因んだ寺院として、白水阿弥陀堂がある。又、岩城氏の家臣団を含めた城郭として、岩城四十八館が点在していた。 磐城平藩に因んだ郷土芸能として、じゃんがら念仏踊りが有名である。 殖産興業期から高度経済成長期まで、常磐炭田が存在した。 夜ノ森以北 7世紀前半には、染羽国造と浮田国造が分立していた。 鎌倉時代から戊辰戦争終結までの740年にわたって相馬氏が治めた土地であり、江戸時代には中村藩の領土であった。 相馬氏に因んだ郷土芸能として、相馬野馬追が有名である。 中村藩以来、陶磁器が特産品となっている(大堀相馬焼)。 殖産興業期から高度経済成長期まで森林鉄道が存在した。 (※ 相馬氏領と伊達氏領の境は駒ヶ嶺城であり、新地町域は1591年から1868年まで仙台藩主伊達氏の領土であった。) (※ 標葉郡は1492年に相馬氏領となったため相馬氏が治めた期間は約370年。平安時代末期から相馬氏に滅ぼされるまでは標葉氏が約340年にわたり治めた。)
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