千駄ヶ谷地区の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 16:18 UTC 版)
千駄ヶ谷地区は近世には豊島郡野方領千駄ヶ谷村と呼ばれたが、一部地区は近世から町地化して千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷大番町と称し、町奉行支配下にあった。千駄ヶ谷町は明治5年(1872年)に再編されて千駄ヶ谷一〜三丁目と改称。また、千駄ヶ谷村の一部から明治初年に千駄ヶ谷仲町一・二丁目、明治5年に千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷西信濃町が成立している。こうして、明治5年の時点では千駄ヶ谷村と千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷西信濃町の1村8町が存在した。明治11年(1878年)の郡区町村制施行時には千駄ヶ谷村は南豊島郡に、千駄ヶ谷一〜三丁目以下8町は四谷区に、それぞれ属した。翌明治12年(1879年)、千駄ヶ谷一〜三丁目以下8町は四谷区から分離して千駄ヶ谷村と合併し、新しい千駄ヶ谷村となった。これに伴い千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目の町名は消滅、大番町、甲賀町、西信濃町は千駄ヶ谷村の字名となった。 明治22年(1889年)の市制町村制施行時、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の7字(大番町・西信濃町・甲賀町・池尻・霞岳・川向・火薬庫前)が再度四谷区に編入され、同村の残余は原宿村、隠田村と合併して新たな千駄ヶ谷村となった(現・渋谷区のうち)。明治22年に千駄ヶ谷村から四谷区に再編入された7字は大部分が陸軍練兵場敷地で、明治11年時点の千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町に相当する。明治24年(1891年)、字霞岳・川向・甲賀町の区域をもって四谷霞岳町(かすみがおかまち)が成立、字西信濃町・火薬庫前の区域をもって四谷西信濃町が成立、字大番町・池尻は四谷大番町に編入された。これらは現行の霞ヶ丘町、信濃町(西部)、大京町(南部)にあたる。なお、明治11年時点の千駄ヶ谷二・三丁目および千駄ヶ谷仲町一・二丁目に該当する区域は千駄ヶ谷村のうちにとどまり、現行の渋谷区千駄ヶ谷一〜六丁目、代々木一丁目などになっている。 以下は、四谷区成立以後、明治24年(1891年)までに隣接の区・町・村からの編入により成立した町である。これら9町の成立により、四谷区の町丁数は差引42となった。 町名(1891年現在)成立年廃止年現町名備考四谷七軒町 江戸期 1943 四谷本塩町 もと市谷七軒町、1879年牛込区より編入、四谷七軒町に改称 本村町 1880 1943 四谷本塩町 もと牛込区市谷本村町の一部、1880年編入 麹町十一丁目 江戸期 1943 四谷1 1880年麹町区から編入 麹町十二丁目 江戸期 1943 四谷1 同上 麹町十三丁目 江戸期 1943 四谷2 同上 四谷西信濃町 1891 1943 信濃町 1889年千駄ヶ谷村から四谷区へ編入された区域のうち字西信濃町の区域。1891年、四谷西信濃町の町名を設定。 市谷片町 江戸期 現存 片町、荒木町 1880牛込区より編入。1943、一部が荒木町に編入。 四谷霞岳町 1891 現存(ごく一部が存続、「四谷」の冠称は廃止) 2003、大部分が霞ヶ丘町に変更 町名読み方は「よつやかすみがおかまち」。1889年千駄ヶ谷村から四谷区へ編入された区域のうち字霞岳・川向・甲賀町の区域。1891年、四谷霞岳町の町名を設定。字川向は現行の霞ヶ丘町南西部の集合住宅付近、字甲賀町は現行の霞ヶ丘町南東部の神宮球場付近。 四谷内藤町 1891 現存(「四谷」の冠称は廃止) 内藤町 もと内藤新宿町大字内藤新宿一丁目の一部、1889年四谷区に編入、1891年に四谷内藤町の町名設定
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