千本座へ出演
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同年、大阪九條の繁栄座に出演中、母と舞台を観ていた牧野省三に招かれ、彼の経営する千本座に出勤する。翌1905年(明治38年)1月1日に同座で『紅葉時復讐美談』『塩原多助』『後日の加藤』に出演、続けて1月15日に『敵討天橋立』『陸奥松風松前奇談』、2月1日に『二蓋笠柳生実記』に出演している。その後、大阪・八千代座の実川延童一座に加わり、1906年(明治39年)1月より天満座に出勤。2月28日には西陣・岩神座に出勤して『肥後駒下駄』に出演する。同年4月、舞鶴海軍病院で傷病兵慰問の芝居をして院長から感状を受ける。1908年(明治41年)にも舞鶴へ行き、舞鶴座へ出演の傍ら、5月27日の海軍記念日には舞鶴港に停泊の三笠艦上で記念祝賀会の余興として片桐且元退城の一幕を演じ、三笠副長の秋山真之から感謝状を贈られる。 1909年(明治42年)1月、博多で興行中、牧野省三から千本座出勤の話ができ、7月14日を初日として同座に出勤する。同時に千本座の座付俳優として契約が成立し、座頭となる。嵐栄二郎・片岡市太郎と一座していたが、9月30日に栄二郎が去ると、嵐橘楽が加入する。この橘楽は、松之助の子供芝居時代の仲間で、後の松之助映画の脇役として活躍した。
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