医師、教育者、実業家、そして篤志家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:34 UTC 版)
「山田忠孝」の記事における「医師、教育者、実業家、そして篤志家」の解説
医師となったターチはベセスダ海軍病院で軍役をつとめた後、UCLA医学部で教育者としての立場にまわり、その後ミシガン大学に移って医学部消化器学部長に就任、さらにミシガン大学メディカルセンターの内科医長を兼ねた。ミシガン大学医学部時代には専門の消化器学科の教科書の著述・編纂事業にも多くの時間を割き、代表作 Textbook of Gastroenterology 全3巻をはじめとする体系的な教科書群を完成させた。同書は今日では、全米の大学の医学部消化器学科で学ぶ者にとっては必須の教科書の一つとなっている。 この後今度は製薬業界に転身し、1996年にはグラクソスミスクライン研究開発部門会長および取締役に就任。合併前の旧グラクソ・ウェルカムの本拠地イギリスのロンドンと、旧スミスクライン・ビーチャムの本拠地アメリカのフィラデルフィアを頻繁に往復する日々を送った。 さらに還暦を迎えて引退を考えていた矢先の2006年にはビル・ゲイツからの誘いを受けてビル&メリンダ・ゲイツ財団の世界衛生部門総裁に就任、開発途上国向けの低コストの保健ツールの開発と供給を助ける財団の活動を主導した。 2011年初めには同年6月をもって同財団を勇退し、篤志家としての活動にひとつの終止符を打つことを発表。今後はこれまであまり顧みることのなかった日本において未公表の「大きな仕事」を手がけたい意向があることを明かしている。 2011年、武田薬品工業取締役チーフ メディカル&サイエンティフィック オフィサー及び、武田ファーマシューティカルズ・インターナショナル株式会社副社長に就任。同年武田から2億4900万円の役員報酬を、2012年には7億1200万円の役員報酬を、2013年には8億3800万円の役員報酬を受けたと報じられた。
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