北隊
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アムンセン隊が出発したという知らせがエバンス岬に届いた後、キャンベルの東隊は「北隊」に変わった。1911年2月9日、この隊は船で北に向かい、2月17日にケープ・アデアに近いロバートソン湾に到着し、ノルウェーの探検家カルステン・ボルクグレヴィンクの古い宿泊所近くに小屋を建設した。 北隊は1911年の冬をこの小屋で過ごした。1911年から1912年にかけての夏に、その探検計画は海氷の状態が悪かったことと、内陸への道を発見できなかったことのために、十分に実行できなかった。テラノバはニュージーランドから1912年1月4日に戻り、この北隊をエバンス・コーブ近くまで運んだ。そこはケープ・アデアからは約250マイル (400 km) 南、エバンス岬からは200マイル (320 km) 北西にあった。この隊はさらに地質調査を行った後の2月18日に船に拾われる予定だったが、厚い叢氷のために船が近接できなかった。この隊は食料が乏しかったので、魚やアザラシの肉で補い、1912年の冬はインエクスプレシブル島に掘った雪の洞窟で越すことになった。ここで彼らは、凍傷、飢え、赤痢、という酷い生活を送り、強風や低温で追い打ちを掛けられ、狭い宿舎の中で脂身ストーブの不快さに耐えた。 1912年4月17日、極点行隊の不在の時にエバンス岬を指揮していたエドワード・アトキンソン指揮下の隊がキャンベル隊の救援に向かったが、悪天候のために引き返した。北隊は氷の部屋の中でその冬を生き残り、1912年9月30日にベースキャンプに向かって出発した。壊血病の兆候があらわれ肉体的に弱っていたが、隊員全員が11月7日にエバンス岬に到着できた。その途上では、難しいドリガルスキー氷舌を越えることなど危険な旅があった。北隊が集めた地質標本などは1913年1月にテラノバによってケープ・アデアとエバンス・コーブから集められた。
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