北徴遺文とは? わかりやすく解説

北徴遺文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:44 UTC 版)

手取川の戦い」の記事における「北徴遺文」の解説

下間頼廉書状(北徴遺文) 本文今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。向後弥々可被抽忠節肝要候。恐々謹言五月廿五日 頼介判 堀才介殿」 年不詳5月25日掲載されているが(『北徴遺文文書目録』)、井上鋭夫は、5月9月誤写であろうとして、年不詳を、天正5年比定し、天正5年9月25日こととしている。ただし、5月9月誤写とする根拠は何も示されておらず、同文書中25日の5と5月の5は筆跡がまったく同じであり、下間頼純書状9月比較しても、5月9月ははっきり、書き分けられており、編者森田書き写し間違いとする根拠不明である。 北徴遺文に収載下間頼純下間頼廉書状の一覧(巻末文書目録より。) 番号文書年月日差出所宛交戦場所(文書中から抽出)10001 下間頼純書状 天正8年 卯月朔日 侍従法橋頼純判 堀五兵衛殿 金沢表:石川県金沢市 10002 下間頼純書状 天正5年9月14日 侍従法橋頼純判 宇丹内堀才介殿 粟津口:石川県小松市 10003 下間頼廉書状不詳 650 5月25日 頼介(廉)判 堀才介殿 交戦場所不明記載ナシ 10004 下間頼廉書状 天正5年12月8日 刑部卿法眼頼介(廉)判 堀五兵衛殿 塩浜加賀江沼郡大聖寺近く 10005 下間頼廉書状 天正5年12月8日 刑部卿法眼頼介(廉)判 堀五兵衛殿 串村加賀能美郡小松市 交戦相手文書中に一切記載がない。 10003-10005の下間頼廉書状は、いずれも夜討ち記述あり。 『北徴遺文』は、郷土歴史研究家森田柿園1823年 - 1908年)が、生涯通じて加賀能登越中三ヶ国の寺社諸家伝来する文書筆写した全10巻(冊)からなる文書集中世前期から藩政期にかけての文書811点が書き写されており、それぞれに編者森田による解説推定年号人物比定史料所蔵先などが記されている。書体虫食い料紙継ぎ目に至るまで忠実に模写されているものや、現在では原本失われているものもあり、貴重な史料数多く掲載する

※この「北徴遺文」の解説は、「手取川の戦い」の解説の一部です。
「北徴遺文」を含む「手取川の戦い」の記事については、「手取川の戦い」の概要を参照ください。

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