北徴遺文
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下間頼廉の書状(北徴遺文) 本文「今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。向後弥々可被抽忠節事 肝要候。恐々謹言。五月廿五日 頼介判 堀才介殿」 年不詳・5月25日と掲載されているが(『北徴遺文文書目録』)、井上鋭夫は、5月は9月の誤写であろうとして、年不詳を、天正5年に比定し、天正5年9月25日のこととしている。ただし、5月を9月の誤写とする根拠は何も示されておらず、同文書中の25日の5と5月の5は筆跡がまったく同じであり、下間頼純書状の9月と比較しても、5月と9月ははっきり、書き分けられており、編者の森田の書き写し間違いとする根拠は不明である。 北徴遺文に収載の下間頼純・下間頼廉の書状の一覧(巻末の文書目録より。) 番号文書名年月日差出所宛所交戦場所(文書中から抽出)10001 下間頼純書状 天正8年 卯月朔日 侍従法橋頼純判 堀五兵衛殿 金沢表:石川県金沢市 10002 下間頼純書状 天正5年ヵ 9月14日 侍従法橋頼純判 宇丹内堀才介殿 粟津口:石川県小松市 10003 下間頼廉書状 年不詳 650 5月25日 頼介(廉)判 堀才介殿 交戦場所不明記載ナシ 10004 下間頼廉書状 天正5年ヵ 12月8日 刑部卿法眼頼介(廉)判 堀五兵衛殿 塩浜:加賀江沼郡大聖寺近く 10005 下間頼廉書状 天正5年ヵ 12月8日 刑部卿法眼頼介(廉)判 堀五兵衛殿 串村:加賀能美郡・小松市 交戦相手は文書中に一切記載がない。 10003-10005の下間頼廉書状は、いずれも夜討ちの記述あり。 『北徴遺文』は、郷土歴史研究家の森田柿園(1823年 - 1908年)が、生涯を通じて、加賀・能登・越中三ヶ国の寺社・諸家に 伝来する文書を筆写した全10巻(冊)からなる文書集。中世前期から藩政期にかけての文書811点が書き写されており、それぞれに編者・森田による解説・推定年号・人物比定・史料所蔵先などが記されている。書体や虫食い、料紙の継ぎ目に至るまで忠実に模写されているものや、現在では原本が失われているものもあり、貴重な史料を数多く掲載する。
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