勢道政治による士林派の終焉まで
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「南人 (李氏朝鮮)」の記事における「勢道政治による士林派の終焉まで」の解説
英祖治世下の1728年、老論によって排斥された李麟佐(少論)が戊申の乱を引き起こすと慶尚道で反乱に加担した南人がいた。この件以来南人は逆賊の烙印を押されることになった。 甲戌換局で下野してから100年ほど経った1798年、正祖の蕩平策によって当時の領袖であった蔡済恭が大臣に抜擢される。これを皮切りに中央政界に復帰すべく儒者の李鎮東は、南人が戊申の乱で反乱軍に抵抗したのに逆賊の汚名を着せられていると正祖に訴える。すると正祖は南人への支援を確約し、積極的に科挙で南人を登用していった。 南人が次々と登用されていく中、老論はこれに抵抗する。正祖が南人に傾倒して老論の意見を聞かないこと、これをもって学問をないがしろにして遊びほうけていると諫言したのである。南人はこの発言をした老論の一人を弾劾し、この発言を擁護した尹九宗の取り調べをする。取り調べを進めると尹九宗が第20代国王景宗の妃である端懿王后の陵墓の前を通りすぎる際に輿から降りていなかったことが明らかになる。これによって老論が景宗を国王とみなしていなかったことが露見する。これを契機に蔡済恭は老論によって死に追い詰められた荘献世子の話を持ち出して老論を批判する。さらに南人は荘献世子の名誉回復と老論の反逆罪適用を求めた上訴を行い、この上訴には1万57人が連署した。これに対し正祖は感極まり、理解を示しつつも老論を配慮して南人の訴えを認めなかった。その10日後、南人は前回より311人多い1万368人で再び上訴する。さらにもう一度上訴を計画するが正祖の懇切丁寧な説得により断念する。 正祖治世下、荘献世子の死に対して同情的だった派閥を時派という。南人は少論とともに時派を形成した。 当時、南人はキリスト教を受容していた。清人の神父が朝鮮に密入国する事件が起こると、老論によって排斥され始める。しかし正祖は粛宗時代に老論の領袖がキリスト教を評価していたことに触れて老論のキリスト教排斥を批判して政権を南人の李家換もしくは丁若鏞が政権を担うことを仄めかした。(伍晦筵教) しかし南人は1799年に蔡済恭が死去して勢力が弱まったことに加え伍晦筵教の直後に正祖が死去したことにより窮地に立たされる。 純祖が即位すると貞純王后を中心に老論がキリスト教弾圧(辛酉教獄)して南人を多く処刑・流刑に処して南人を排除した。その後、南人が政権に返り咲くことは二度となかった。そして外戚が台頭して勢道政治が始まり朋党による政治は終焉した。
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