勢道政治による士林派の終焉までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 勢道政治による士林派の終焉までの意味・解説 

勢道政治による士林派の終焉まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)

南人 (李氏朝鮮)」の記事における「勢道政治による士林派の終焉まで」の解説

英祖治世下の1728年、老論によって排斥され李麟佐(少論)が戊申の乱を引き起こす慶尚道反乱加担した南人がいた。この件以来南人逆賊烙印を押されることになった甲戌換局下野してから100年ほど経った1798年正祖の蕩平策によって当時領袖であった蔡済恭が大臣抜擢される。これを皮切りに中央政界復帰すべく儒者鎮東は、南人戊申の乱で反乱軍抵抗したのに逆賊汚名着せられていると正祖訴える。すると正祖南人への支援確約し積極的に科挙南人登用していった。 南人次々と登用されていく中、老論はこれに抵抗する正祖南人傾倒して老論の意見聞かないこと、これをもって学問ないがしろにして遊びほうけていると諫言したのである南人はこの発言をした老論の一人弾劾し、この発言擁護した九宗取り調べをする。取り調べ進めると尹九宗が第20代国王景宗の妃である端懿王后陵墓の前を通りすぎる際に輿から降りていなかったことが明らかになる。これによって老論が景宗国王みなしていなかったことが露見する。これを契機に蔡済恭は老論によって死に追い詰められ荘献世子の話を持ち出して老論を批判する。さらに南人荘献世子の名誉回復と老論の反逆罪適用求めた上訴行いこの上訴には1万57人が連署した。これに対し正祖は感極まり理解示しつつも老論を配慮して南人訴え認めなかった。その10日後、南人前回より311人多い1万368人で再び上訴する。さらにもう一度上訴計画する正祖懇切丁寧説得により断念する正祖治世下、荘献世子死に対して同情的だった派閥を時派という。南人少論とともに時派を形成した当時南人キリスト教受容していた。清人神父朝鮮密入国する事件が起こると、老論によって排斥され始める。しかし正祖粛宗時代に老論の領袖キリスト教評価していたことに触れて老論のキリスト教排斥批判して政権南人李家もしくは丁若鏞政権を担うことを仄めかした。(伍晦筵教) しかし南人1799年に蔡済恭が死去して勢力弱まったことに加え伍晦筵教の直後正祖死去したことにより窮地に立たされる純祖即位する貞純王后中心に老論がキリスト教弾圧(辛酉教獄)して南人多く処刑流刑処して南人排除したその後南人政権返り咲くことは二度となかった。そして外戚台頭して勢道政治始まり朋党による政治終焉した。

※この「勢道政治による士林派の終焉まで」の解説は、「南人 (李氏朝鮮)」の解説の一部です。
「勢道政治による士林派の終焉まで」を含む「南人 (李氏朝鮮)」の記事については、「南人 (李氏朝鮮)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「勢道政治による士林派の終焉まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「勢道政治による士林派の終焉まで」の関連用語

勢道政治による士林派の終焉までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



勢道政治による士林派の終焉までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南人 (李氏朝鮮) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS