勝敗を分けた理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:41 UTC 版)
甲陽鎮撫隊がこのように戦略を軽んじ、無様に敗走することとなった原因のひとつに、甲府は幕府の直轄領であり容易く官軍の手に渡らないだろう、城に入りさえすれば軍備も補充できるだろうと、楽観的に考えていたことが挙げられる。しかし、甲府城代を勤める役割は「山送り」と呼ばれ、幕府役人の左遷先のように扱われており、幕府への忠誠心が高くなかった。 また、領民たちも徳川治世を快く思わず、旧武田家の治世を懐かしむ気風があったことに加え、板垣ら率いる主力部隊の迅衝隊が討幕を目指して軍事教練を行ってきた士気の高い職業軍人たちであったのに比して、近藤らの率いる甲陽鎮撫隊は、剣術などの腕はあっても近代戦の知識の乏しい部隊であった。部隊の構成も、弾左衛門配下の被差別民を「武士にしてやる」とスカウトして集めた俄か仕立の兵卒たちで、武器の扱いにも不慣れで士気も高くなかった。行軍当初から不満が充満しており、彼らを宥(なだ)めて武士の生活を垣間見せ、士気を上げようとしたのが贅沢に豪遊しながらの行軍であったが、近藤自身も武士の出身ではなく、あくまでイメージの中の武士を演じたのである。 実際には、生粋の武士たちの生活は、庶民が考えるほど豪華なものでは無く、自らを律する品行方正なものであった。それら武士の集団であった迅衝隊は、軍律厳しく、飲酒は厳禁されており、隠れて飲んだ者は軍律違反者として斬首された。酒豪の多い土佐人に、禁酒させることは並大抵ではないが、彼らは規律を守り、泥濘に足を取られながらも必死の行軍を続けて、勝利を得たのである。
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