勇猛さと栄達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:21 UTC 版)
韓遂・馬超との潼関の戦いでは、曹操は黄河の北岸へ渡る前に兵を先に渡河させた。しかし、曹操が許褚や親衛隊百人余りと共に南岸に留まって背後を遮断すると、馬超は兵1万人余りを率いて来攻し、雨のように矢を降り注がせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、兵も挙って乗ろうとしたため、船が重さで沈没しそうになった。そこで許褚は船によじ登ろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から守った。さらに、船頭が流れ矢に当たって死ぬと自ら右手で船を漕ぎ、曹操を渡河させた。 その後、戦局が膠着したため両者は会談の場をもつことになった。曹操は韓遂・馬超らと単騎で語らうこととなり、従騎として許褚だけを連れて行った。馬超は武術の腕を頼りに曹操を殺そうと考えていたが、以前から許褚の勇猛さと武力を聞いていたため、従騎が許褚ではないかと疑った。馬超が曹操に対し「公の下には虎侯という者がいると聞いているが」と問いかけると、曹操は無言で後ろを指した。このため許褚が馬超を睨みつけると、馬超は動くことができずに結局引き返した。数日後、馬超軍と戦った時、曹操は馬超らを大いに破った。許褚は自ら敵の首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛という称号はこの時から始まったという。 曹操が魏王となった頃、曹仁が荊州から戻ってきたときに宮殿の外で許褚に出会った。曹仁が中に座って寛いで語ろうと誘ったが、許褚は「王(曹操)は、まもなく出殿なされる」と言ってすぐ宮殿に引き返してしまった。曹仁がこのことに怒ると、ある者が許褚に対し「征南将軍(曹仁)は王族の重臣なのに、謙って君をお呼びになったのだ。それなのになぜ断ったのか」と言った。これに対し許褚は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せましょうか」と答えた。それを聞いた曹操は、こと更に許褚を信愛し、中堅将軍に昇進させた。 曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いたという。 曹丕(文帝)が即位すると、万歳亭侯に進封され、武衛将軍に転任した。中軍の宿衛禁兵を都督し、曹丕にも側近として大いに親しまれた。かつて許褚が率いて虎士となった者から、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、また都尉・校尉となった者は100人余りに上り、皆が剣術家であったといわれる。 曹叡(明帝)が即位すると、牟郷侯に進封して領邑700戸となり、一子が関内侯に封ぜられた。やがて死去し、壮侯と諡された。子の許儀が後を嗣いだ。太和年間に再び許褚の忠孝が評価され、詔勅により子孫二人が関内侯に封ぜられた。 陳寿は、許褚と典韋が曹操の左右を警護したことは、漢の樊噲に準えると評している。 裴松之は、徐他の謀叛に許褚が胸騒ぎを起こしたのは、漢の金日磾と同じく忠誠の極致があったためで、更に潼関の危難も許褚がいなければ救済できなかったことであり、その功烈は典韋に勝るものがあると述べている。また、典韋が曹操の廟庭に功臣として祭られたものの、許褚は祭られることがなかったため、そのことについて理解しがたいとも述べている。
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