初期幕府海軍の主力艦
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当時、築地軍艦操練所において、幕府が所有していた蒸気軍艦は、蟠竜丸と咸臨丸、そしてこの朝陽丸だった。 文久元年(1861年)、イギリスの長崎領事モリソンが、攘夷派浪士に襲われた第1次東禅寺事件のときには、矢田堀鴻を艦長として長崎へ連絡航海をした。その翌年からは、同じく矢田堀を艦長として、小笠原諸島開拓のための往還や漂着外国船の救助、京阪への幕府要人送迎、将軍護衛などに活躍する。文久3年(1863年)には長州藩の外国船砲撃について使節団を現地へ輸送したが、長州藩兵の攻撃を受けて一時占拠される事態となった(朝陽丸事件)。 軍事的な出動としては、元治元年(1864年)、天狗党の乱における那珂湊出陣があげられる。武田耕雲斎らが那珂湊に立てこもった際に朝陽丸に出勤が命じられた。到着した朝陽丸に対し陸上から砲撃があったが古式の砲だったため朝陽丸の脅威にならなかった。朝陽丸は停泊のまま、空砲で威嚇した。浪士たち数百名が漁船に乗り本船を奪いに来たが、朝陽丸は銃砲を使わずに航行を始めたところ、皆陸上に逃げていったという。朝陽丸は逃げ遅れた1隻のみを捕獲し、江戸湾に帰港した。幕府海軍が軍艦を戦場に派遣した初めての事例になった。 以降、軍艦としての活動にはめざましいものがない。一応諸資料では、砲12門、コルベットとなってはいるが、砲艦といった方がいい大きさで、あるいは12門の砲も威力のあるものではなかったのかもしれない。新たに幕府が所有した冨士山丸や回天丸、そして開陽丸に活躍の場を譲った。
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