初期広島県政への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 06:35 UTC 版)
「伊達宗興 (紀州藩士)」の記事における「初期広島県政への関与」の解説
宗興が今日の広島県知事に相当する同県参事・権令に在任していた時期は、それまで広島城内に置かれていた県庁が、広島鎮台の拡充により城外の国泰寺に移転を余儀なくされるなど所在地が定まらない状況であった。このため彼は、1873年(明治6年)3月29日、大蔵省に「県庁設立伺」を出し、県庁を広島から尾道に移転し、「御調県」と改称することを提議した。しかし当時、同省の幹部であった前島密は、尾道の道幅が狭いことや、また県庁所在地をみだりに変更するべきではないことを根拠に、彼の提案に反対したため、実現しなかった。 また同年12月24日、その2年前の解放令に端を発した騒擾について、被差別部落民が「自己の程を忘れ」たのが争論の原因なので、身の程を顧み分限を守るよう求める令達を「新平民」に向けて出した。新旧の差別をなくすよう求めた太政官布告の趣旨に反するものであった。
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