初期の経歴、ジョセフ・スミスの後継者となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:14 UTC 版)
「ブリガム・ヤング」の記事における「初期の経歴、ジョセフ・スミスの後継者となるまで」の解説
ヤングはバーモント州ホワイティンガムの農家で生まれ、幾つかの職業を経験したが、その中でも旅の大工と鍛冶屋を生業にしていた。1824年にミリアム・アンジェリン・ワークスと結婚した。1823年にメソジストに改宗していたが、「モルモンの書」が1830年に出版されてから直ぐにそれを読んで、モルモンの教えに惹かれるようになった。正式には1832年にこの新しい教会に加わり、モルモン宣教師としてアッパー・カナダに旅した。1832年に最初の妻が死んだ後、オハイオ州カートランドで多くのモルモン教徒と共にその地域社会設立に加わった。 1844年、教会の大管長、ジョセフ・スミスが反逆罪で告発され、裁判を刑務所で待っている間に武装した暴徒に殺された。それに続く継承の危機の間に、教会の大管長の役割を引き受けようという者が何人か現れた。イリノイ州ノーブーで後継者を決める大きな集会が開催される前に、教会草創期の生き残りメンバーでは年長であるシドニー・リグドンが、亡くなった預言者(スミス)の後継者はあり得ないので、リグドンが教会の「保護者」になるべきだと主張した。ヤングはリグドンの論法と動議に反対した。スミスはある啓示を記録しており、その中では十二使徒定員会が初代大管長と「等しい権限と権力」を持つと謳っていたので、ヤングは教会の指導が十二使徒定員会に委ねられると主張した。ヤングの追随者の多くは、ヤングが聴衆に話し掛けるときに、ジョセフ・スミスに似て見えるか似たような声と聞き、それを神の力によるものとした。この集会に参加した多くの者にとって、この出来事はヤングが十二使徒定員会の大管長として教会を導く兆しのように受け入れられた。ヤングは、スミスの死から3年半経った1847年12月に教会の大管長に聖任された。リグドンはピッツバーグに本拠を置く別の教会組織の大管長になり、他にも後継者となる可能性があった者達がこの運動の他の会派となるものを導くようになった。
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