初のCQD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 04:32 UTC 版)
しかし「他社とは交信しない」ことを方針とするマルコーニ社にとって、他社との符号共通化など全く無価値だった。SOSを定めたベルリン会議の無線規則が1908年7月1日に発効してもこれを使おうとはせず、自社のCQD規定をそのまま残した。CQDが古い遭難信号で、SOSが新しい遭難信号という関係ではなく、同時代に二つの遭難信号が共存していたのである。 マルコーニ社の遭難信号CQDが初めて使われたのは1909年1月23日、ニューヨークから北東へ200kmほど離れたナンタケット沖で起きた、ロイド・イタリアーノ・ラインの「フロリダ号」とホワイト・スター・ラインの「リパブリック号(RMS Republic)」の衝突事故である。リパブリック号に開設されたマルコーニ局MKCがCQDを発信すると、ただちにマルコーニ社のシアスコンセント海岸局MSCおよびホワイト・スター・ライン「バルチック号(RMS Baltic)」のマルコーニ局MBSと連絡が取れ、掛け付けたバルチック号によって乗客1500人が救われた。無線電信が多くの人命を救ったと大いに注目を集め、リパブリック号のジャック・ビンズ通信士は英雄となった。 無線通信の商用化以来、しばらくの時代は、船舶無線局のオーナーはその船を所有する海運会社ではなく、無線会社だった。海運会社が無線電報取扱いの業務委託契約を無線会社と結び、船にその無線会社の無線局を開設してもらい、無線会社の通信士がオペレーションしていた。したがって「マルコーニ社製の無線機を使う船」というよりも「マルコーニ社の無線局を開設している船」とする方が誤解が少ない。なお遭難信号の発信権は船長にあり、無線会社の一存では出せない。またこの時代のマルコーニ社の無線局はMarconiの頭文字"M"で始まる3文字のコールサインを使用していた。
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