分布と社会構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:20 UTC 版)
北部九州の墳墓は甕棺墓が広く見られるが、弥生時代中期後半では副葬品の内容から各地域同士で序列が生まれたと考えられる。特に漢鏡の副葬は面径の大小や出土数に明確な序列が見られ、三雲南小路遺跡1号墓(伊都国)と須玖岡本遺跡D地点墓(奴国)を中心とした同心円的な秩序が見られ、権威の象徴であった可能性がある。突出しているのは、面径27.3㎝の超大型の彩画鏡(鏡背に彩色の文様を施した銅鏡)が出土する三雲南小路遺跡と、同時期の前漢の諸侯王の墓からも出土する面径23㎝の大型草葉文鏡が出土する須玖岡本遺跡で、2地域は漢王朝から破格の待遇を受けていたと考えられている。この事から岡村は、三雲・須玖の首長が楽浪郡に朝貢して前漢鏡が贈与されたとし、それを周辺の首長に分ける分配システムがあったとしている。一方で辻田は、同時期の須玖は青銅器生産の中心地で、同地で生産された青銅器は三雲からも出土していることや、わずかに三雲から出土する漢鏡が優れることから、漢への朝貢は三雲が行い、須玖は青銅器生産を分担し、それぞれの文物を贈与・交換する相互関係があったと推定している。 ただし、こうした漢鏡の副葬はごく短い期間に行われたと考えられ、継続して流入した可能性は低いとされる。また、漢鏡の流通に現れる社会秩序は、北部九州という狭い地域に限定される。辻田はこうした様相から、基本的には弥生時代中期にみられる部族社会的な枠組みを出るものではなく、階層化社会の発現を示唆するものではないとする。 また、この時期の北部九州で出土する漢鏡3期は、朝鮮半島の出土品と比較しても面径が大きく、出土数も100面以上と際立って多い。この点について岡村は、漢王朝の王化思想により、海を隔てた辺境からの朝貢は皇帝の徳の高さを示すものであった為、漢王朝から厚遇を受けたと推測している。
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