出生から信玄時代とは? わかりやすく解説

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出生から信玄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 17:21 UTC 版)

内藤昌豊」の記事における「出生から信玄時代」の解説

武田三代軍記によれば大永2年1522年)、武田信虎重臣工藤虎豊下総守)の次男として生まれたという。父・下総守事跡不明であるが、永正5年1508年)に武田信虎反乱して敗北し郡内地方小山田平三とともに伊豆国韮山伊勢宗瑞北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守相当するとも考えられている。 初見史料永禄2年1559年6月12日で、「工藤左衛門大尉」を名乗り信玄側近として活動していることが確認される永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城守備している。『甲陽軍鑑によれば永禄4年1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊所属し上杉軍背後を襲う妻女山別働隊大将として活躍したという。 永禄9年1566年)までに信濃国深志城松本城長野県松本市)の城代務める。武田氏西上野侵攻行い、同永禄9年9月箕輪城群馬県高崎市箕郷町)を攻略し永禄10年1567年3月白井城攻略し西上野を領国化する。昌豊は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次務めている。箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱真田幸綱による在番で、永禄11年1568年)から永禄12年1569年)には浅利信種務めている。浅利信種永禄12年10月6日三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌豊は信種の後任として永禄13年から元亀元年1570年4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦戦死する天正3年まで務めている。なお、三増合戦で昌豊は小荷駄隊率いて自軍補給支えたという。 永禄10年8月12日時点では「工藤左衛門尉昌秀」を名乗っている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}昌秀永禄12年8月26日時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代内藤家名跡継承し内藤姓に改め同時に修理亮名乗った考えられている(工藤氏家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀永禄13年4月3日武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され同月10日には箕輪城着任確認されるこのため内藤改姓箕輪城就任に伴うものであったとも考えられている[要出典]。 元亀2年1571年12月には越後上杉氏から上杉家北条高広・景家を通じて同盟申し出があり、このころ武田氏北条氏政甲相同盟結んでいたため、昌秀信玄側近跡部勝資協議し、これを退けている。

※この「出生から信玄時代」の解説は、「内藤昌豊」の解説の一部です。
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