写真界のパトロンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 13:18 UTC 版)
「鹿島清兵衛」の記事における「写真界のパトロンとして」の解説
豊富な資金力をバックに、バートンらを通じてヨーロッパの最新の写真機材や撮影技術を日本に導入し、周囲の写真家仲間たちの支援もよくした。アーク燈を使った夜間撮影を始めたほか、引き伸ばし技術が未熟だったこの時代に大判の写真を次々と制作し、国内のみならず、乾板の注文を受けたフランスの会社をも驚かせた。玄鹿舘の広告によると、八尺四方まで可能とある。また、輸入した機材を貸し出してX線の実験にも寄与した。玄鹿舘を閉める際には、写真家たちに撮影機材や備品などを好きなだけ持っていかせたという。 清兵衛および玄鹿舘の代表的な写真としては以下のようなものがある。 九代目市川団十郎の「暫」の舞台写真(早大演劇博物館蔵)- 超大型写真であり、日本初の舞台写真。気むずかしい団十郎が、感光しにくいという理由から、撮影のために紅でなく生臙脂(しょうえんじ)で隈をとったという。こうした撮影が可能だったのも、清兵衛が普段から役者に金を遣っていたからである。 富士山の超特大写真(宮内庁蔵) - 明治天皇・昭憲皇太后銀婚式(明治27年)の祝いとして献上した六尺×九尺の大型写真。 英照皇太后葬儀の際の夜間撮影 - 日本初の屋外夜間撮影。当初、陸軍の参謀本部が撮影する予定だったが、手に負えず、玄鹿舘に依頼がきた。暗闇の中でマグネシュームを突然発光して葬列の牛が驚かないか、前日御所の牛小屋で試したという。 若い芸者を使ったブロマイド風のキリンビール宣伝写真。 玄鹿舘の仕事としては、アイヌや日清戦争の写真集もある。
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