内線・外線兵団と初期の活動
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「華東野戦軍」の記事における「内線・外線兵団と初期の活動」の解説
1947年3月、蔣介石は24個師団、60個旅団、約45万人を動員して、山東解放区に進攻した。4月下旬、華東野戦軍は、泰安で敵第72師を撃滅した後、蒙陰、新泰、萊蕪以東地区に転移した。7月末、孟良崮及び南麻、臨朐等の戦役を行い、約8万人の敵軍を撃滅した。特に孟良崮戦役では、国民党軍精鋭の第74師、3万2千人を撃滅した。 1947年8月、党中央の戦略方針に従い、第1、第3、第4、第6、第8、第10縦隊及び特種兵縦隊を以って外線兵団(陳毅と粟裕が指揮)が編成され、外線作戦を担当した。第2、第7、第9縦隊と新編の第13縦隊からは、内線兵団(許世友と譚震林が指揮)が編成され、山東の内線作戦を担当した。第11、第12縦隊と各軍区部隊は、敵後方で活動しつつ、外線及び内線兵団の作戦に協力した。 9月初め、蔣介石は、20個旅団を動員して膠東解放区に進攻した。華東野戦軍内線兵団は、敵軍を誘引しつつ、外線兵団の作戦に呼応した。4個縦隊を集中し、軍区部隊の協力の下、5ヶ月間に渡り作戦を行い、約6万3千人の敵軍を撃滅し、膠東から敵を駆逐した。 9月下旬、華東野戦軍外線兵団は、第10縦隊を魯西南に残置して、主力を5路に分けて徐州と開封の間で隴海路を横断し、豫皖蘇地区に南下した。12月下旬、豫皖蘇に進軍し、陳謝兵団と共に隴海路と平漢で約7万人の敵軍を撃滅した。劉鄧と陳謝兵団は、中原解放区を拡大すると同時に、国民党軍約90個旅団を引き付け、他戦線に対する圧力を軽減させた。
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