公務時間と訴訟制度への関心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「公務時間と訴訟制度への関心」の解説
『太平記』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関)に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた。 その後、2007年に久野修義によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の後宇多院ら大覚寺統が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている。 しかし、先述のように、後醍醐は自身の個人的な裁断によって訴訟を解決しようとし、それは雑訴決断所開設後も本質的には変わらなかった(雑訴決断所は後醍醐の綸旨と決断所の牒をもって裁断されることになっていたが、このルールは建武2年(1335年)初頭には実行されなくなっていた)ため、社会の混乱は収まらず、むしろ拡大してしまった。
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