入門~初代・木村正直
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実父は地元の相撲集団・愛知組の頭取・一力利三郎で、1871年に親の勧めで同郷の大坂相撲頭取・三保ヶ関喜八郎の部屋に入門。初名は木村秋次郎で1873年7月初土俵。しかし兄弟子の厳しい指導に耐えきれず、一時郷里に帰った。当時、東京相撲を脱退した初代高砂浦五郎が名古屋で改正組を結成、1875年にその一員となり、木村庄治郎とも名乗っていた。1878年5月、4年半余り対立していた高砂改正組は仲裁者の仲立ちで東京相撲と和解、復帰することになり、木村秋二郎(秋治郎)で同場所の別番付に記載された。欠場したこともあったが、順調に土俵を務め、1883年5月に木村直と改名、1887年1月には上位から9人目にあった。この間、師匠・高砂の義兄・柳川宗助の養嗣子となったが、高砂の弟子だった大達羽左エ門の破門問題で高砂と養父の間で不和が生じ、両者の間に立った秋二郎は1891年1月限りで無念にも脱退に追い込まれてしまった。3年ほど巡業の世話人を務めたり商人ともなっていたが、彼の技量を惜しむ大坂相撲の幹部から帰参を勧められ復帰、1895年9月に木村正直(初代)と改名した。若いながらも勝負の裁き、土俵態度は群を抜き、その見識と明晰な頭脳は高い評価を受けていた。
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