児玉党系塩谷氏とは? わかりやすく解説

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児玉党系塩谷氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 17:23 UTC 版)

塩谷氏」の記事における「児玉党系塩谷氏」の解説

武蔵七党一角を占める児玉党本宗3代目児玉武蔵権守家行(有道姓)の次男児玉二郎家遠(後の塩谷平太夫家遠)が、武蔵国児玉郡塩谷若泉庄の塩谷現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ子孫土着して塩谷(しおや)を名乗ったことから始まる(児玉党構成する氏族)。従って、藤原姓とあるが本来の初姓は有道姓であり、12世紀中には塩谷名乗っていたものと見られる。児玉党系塩谷氏の活躍については、『源平盛衰記』などの資料見られる児玉町には、源義経居所を児玉党系塩谷氏が真下基行と共に襲撃したとの旧家伝書もある。 『武蔵七党系図』では、嫡流を、家遠→経遠→経光(児玉二郎)としている(複数系図存在している為、断定できない)。また、家遠の子塩谷五郎維弘は、一ノ谷の戦い参戦し奥州合戦にて戦死し、維弘の子三郎維盛その子である六郎維光は、共に建暦3年1213年5月2日和田合戦時に討死にしたと伝えられている(『武蔵国児玉郡誌』)。 『塩谷系図』によると、家遠の子、家経(民部大夫)は、承久の乱の時、宇治川死去したとあり、年齢71だったとある。その子息である家朝(通称太郎右衛門尉)は、寛喜年間死去した記述されている。 なお、児玉党系塩谷氏は伊勢国安芸国所領得たが、本貫地である児玉郡塩谷郷は室町時代には安保氏丹党一氏族)の所領となっている。

※この「児玉党系塩谷氏」の解説は、「塩谷氏」の解説の一部です。
「児玉党系塩谷氏」を含む「塩谷氏」の記事については、「塩谷氏」の概要を参照ください。

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