児玉党系塩谷氏
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武蔵七党の一角を占める児玉党の本宗家3代目児玉武蔵権守家行(有道姓)の次男、児玉二郎家遠(後の塩谷平太夫家遠)が、武蔵国児玉郡塩谷郷若泉庄の塩谷(現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ、子孫が土着して塩谷(しおや)を名乗ったことから始まる(児玉党を構成する氏族)。従って、藤原姓とあるが本来の初姓は有道姓であり、12世紀中には塩谷を名乗っていたものと見られる。児玉党系塩谷氏の活躍については、『源平盛衰記』などの資料に見られる。児玉町には、源義経の居所を児玉党系塩谷氏が真下基行と共に襲撃したとの旧家の伝書もある。 『武蔵七党系図』では、嫡流を、家遠→経遠→経光(児玉二郎)としている(複数系図が存在している為、断定はできない)。また、家遠の子、塩谷五郎維弘は、一ノ谷の戦いに参戦し、奥州合戦にて戦死し、維弘の子、三郎維盛とその子である六郎維光は、共に建暦3年(1213年)5月2日の和田合戦時に討死にしたと伝えられている(『武蔵国児玉郡誌』)。 『塩谷系図』によると、家遠の子、家経(民部大夫)は、承久の乱の時、宇治川で死去したとあり、年齢は71だったとある。その子息である家朝(通称太郎、右衛門尉)は、寛喜年間に死去したと記述されている。 なお、児玉党系塩谷氏は伊勢国と安芸国の所領を得たが、本貫地である児玉郡塩谷郷は室町時代には安保氏(丹党の一氏族)の所領となっている。
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