児玉党の上州への勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:14 UTC 版)
『玉葉』の安元元年(1175年)11月14日条に、伊勢神宮より上野国緑野郡高山御厨に対する児玉庄の濫行が訴え出され、朝廷では児玉庄にその実否を問い合わせている、との旨の記述がある。児玉庄と高山御厨は、神流川を境界にして隣接していたので両者の間で紛争が生じたものと考えられる。この時、児玉党の党首は庄太郎家長であったと推定されている。『武蔵七党系図』には、阿佐美実高(弘方の子息の1人で家長の甥)の所領中に、「上野国高山御庄」とある為、朝廷の問い合わせにかかわらず高山御厨がやがて児玉党によって略奪された事が分かる。12世紀末の時点で児玉党が武蔵国国境を越え、その勢力を上野国南部にまで広げていた事が分かる。
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