儲君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:00 UTC 版)
承応3年(1654年)9月、長兄の後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近(勧修寺経広・三条西実教・持明院基定)は天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条)。 また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや、当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために、唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったことから、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。ただし、まだ生後4か月であった高貴宮が直ちに皇位を継ぐのは無理とも判断された。このため、高貴宮が成人するまでの中継ぎの天皇が立てられることになった。将軍徳川家綱は若年(14歳)であることを理由に関白二条光平の判断に委ねると伝えていたが、一方で幕閣(酒井忠勝・松平信綱・酒井忠清・阿部忠秋)は高貴宮が元服をしたら譲位を受けるという後水尾法皇の方針は了承したものの、その時期を判断するのは徳川将軍家出身である東福門院であることを明言していた。この結果、高松宮を継承していた花町宮良仁親王が1代限りの中継ぎとして皇位を継承することになった(後西天皇)。 万治元年(1658年)1月、親王宣下を受けた。
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