俳人としての経歴
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1900年に、赴任先の谷村(現・都留市)で「白雛(はくすう)会」を結成。この会には、正岡子規の愛弟子の新免一五坊や県内の神奈桃村らが参加。 『ホトトギス』1900年(明治33年)7月号に「甲斐谷村」として堀内柳南による「白雛会」発会の報告と柳南の句「花菫美しき児眠りけり」が掲載。 1902年(明治35年)柳南は、子規の愛弟子新免一五坊と共に、「あらゆる文学に志ある人」に呼びかけて、甲府の昇仙峡を巡り「山梨文学大会」を開催。1904年(明治37年)、新派の俳誌「白雛」を発行し、俳句を発表。 1913年(大正2年)、『層雲』に「内観の戸に立秋の草咲けり」を投稿。その句が師道碑(山梨県立農業大学校長坂教場北東の丘の上)の裏面に刻まれている。 柳南40代には『層雲』、同人誌『短詩』に投稿。
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俳人としての経歴
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水原秋桜子の句集『新樹』を読んだのがきっかけで俳句の世界に足を踏み入れ、1941年(昭和16年)には月刊俳句誌『馬酔木』に投句した。1960年(昭和35年)には『馬酔木』の同人となり、名古屋市周辺における『馬酔木』俳壇の指導者的存在となった。晩年には自ら俳句誌『帯』を創刊し、豊明市や東海地方の俳人を育てる役割を果たした。また『鯱』同人であり、俳句団体俳人協会会員でもある。 1993年(平成5年)死去。豊明市阿野町に住んでいたこともあって、俳句関係などの蔵書は豊明市立図書館に寄贈され、図書館には「加藤春彦氏コーナー」が設置された。
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