作家活動の再開
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1921年(大正10年)5月、森田草平の紹介で新潮社から『提婆達多』を刊行したのを皮切りに、同年12月には『銀の匙』を岩波書店から刊行するなど、作家としての活動を再開した。翌1922年(大正11年)には、初めて実名の中勘助名義で「犬(未定稿)」を岩波書店から刊行されている文芸誌『思想』にて発表した。しかし、同作は性欲描写などを理由に問題視され、『思想』は発禁処分を受け、岩波茂雄が警視庁に呼び出される事態に発展した。岩波の取りなしもあり、性欲描写に該当すると指摘された箇所を伏字にする処置で一応の解決がなされた。ただ、勘助が晩年「作者の本意がわからない人びとの軽蔑や、嫌悪や、邪推や、憤慨や、大変だった」と述懐するほど、発禁処分を受けたという事実は周囲や世間から非難される要因となった。 1922年7月、東京府東京市赤坂区表町二丁目13番地(現・東京都港区)に家を購入し、四谷へ一時的に移していた家族を引っ越させる。四谷のときと同じくそのときは勘助は我孫子に留まったが、翌1923年(大正12年)12月に我孫子を引き払い赤坂へ移った。 1924年(大正13年)5月、『犬 附 島守』を岩波書店から刊行。赤坂とは別に神奈川県平塚町西海岸(現・神奈川県平塚市)に家族の避暑避寒のため家を建て、夏期・冬期以外を平塚の家で暮らすようになる。この平塚で暮らした期間の日記はのちに「しづかな流」となる。
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