仏教に救い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 21:39 UTC 版)
かの子と一平は宗教に救いを求め、プロテスタントの牧師を訪ねるが、罪や裁きを言うキリスト教には救われなかった。その後唯円の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。 1929年(昭和4年)、『わが最終歌集』を刊行して小説を志すが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年(昭和7年)、太郎を残したままアメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。
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