京極派の予言の書
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為兼卿和歌抄は未定稿的な色彩の強いもので、実際どのような形で流布したのかが全く不明な歌論書である。そのため京極派の代表的な歌人である伏見天皇、花園天皇らが目を通したかどうかもはっきりしない。そして京極派は、観応の擾乱の際、光厳上皇が南朝に拉致されたことがきっかけとなって崩壊し、その後、和歌は二条派が主導することとなり京極派の和歌は長く異端視されることになる。実際、為兼卿和歌抄も明治後半までその存在が忘れ去られており、他に与えた影響はほとんど見られない。しかし京極派の和歌は近代になって再評価が進み、逆に二条派が伝統に凝り固まったものであると見なされるようになった。いずれにしても京極為兼の創始した京極派は和歌の世界にこれまでにない新風を吹き込んだ。 為兼は和歌の実力が全く伴わないまま、和歌宗家たる二条派への反発心と、心のままに表現方法にこだわることなく歌を詠みたいとの欲求に突き動かされて為兼卿和歌抄を執筆した。この為兼の主張は東宮煕仁やそのブレーンたち、つまり持明院統の宮廷に受け入れられ、皇位をめぐる大覚寺統との抗争や鎌倉幕府の滅亡など、鎌倉時代から南北朝にかけての時代の荒波の中、京極派の和歌は真に芸術性の高い歌風に到達することに成功した。完成期の京極派の和歌は『心の絶対的な尊重』、『言葉の完全な自由化』という、まさに京極為兼が為兼卿和歌抄で主張した通りの歌風を実践したものであった。つまり歌論書為兼卿和歌抄と京極派和歌の実作との間には結果として緊密な関係性が見られることになった。京極派の和歌の研究家である岩佐美代子は、若き京極為兼の大言壮語で終わることなく、その歌論が見事に実を結ぶことになった為兼卿和歌抄を『稀に見る幸福な歌論書、驚くばかりの的確な予言書』とし、土岐善麿もまた、京極為兼は藤原俊成、藤原定家、田安宗武とともに、歌論も歌の実作も一流である論作一致の人であったと評価している。
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