京での隠居生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 08:49 UTC 版)
隠居した重賢は「服部十郎左衛門」を名乗り、室町時代からの観世家の邸宅である京の観世屋敷に住した。『秦曲正名閟伝』は隠居後の暮らしについて「遊衍を事にし」と遊興に耽ったことを記すが、のちには『素謡世々之蹟』が記すように「世をば心のままにて過」ごしただろうと推測され、気が向いた時には稽古能なども催していたことが伝えられている。 当時京都では、9世観世大夫黒雪の甥である服部宗巴(福王盛親)以来、型・囃子を伴わない素謡による演能が盛んに行われていた(いわゆる京観世)。隠居後の十郎左衛門(重賢)はこの京観世の関係者と交流があり、また大きな影響力を持っていたと見られる。中でものちに「京観世五軒家」の一角を占める井上家・林家・岩井家などが福王流から観世流に転ずるに当たっては、在京中の重賢が仲立ち役となったらしい。 また素謡界との関係から、観世流の謡本を刊行していた書肆の1人・山本長兵衛との交際が生まれたと伝えられる。重賢の斡旋により山本長兵衛は観世流の版元的立場を手に入れ、元禄以降他の謡本刊行元に対し優位に立つこととなる。さらに重賢は謡本の具体的な内容についても関与したと言われ、元禄3年(1690年)6月奥付の山本長兵衛刊外組謡本(30番、実際の刊行は享保以降らしい)、および正徳6年(1716年)弥生奥付のいわゆる「正徳弥生本」の刊行に携わった可能性が指摘されている。
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