京での躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:40 UTC 版)
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司藤原季範の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏の受領就任は祖父源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。 久寿2年(1155年)、為義の意向を受けて東国に下向し勢力を伸ばしていた弟の義賢を、長男・義平に討たせ、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた(大蔵合戦)。このため、もう1人の弟・頼賢が復仇のため信濃国に下り頼賢と合戦になりかけるなど、義朝・為義の対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている。 なお、従来義朝は為義の嫡子とみなされていたが、最近では官位の問題等で義朝が為義の嫡子であったのか疑わしいとの見解が示されている。義朝は坂東で勢力を延ばす際当初は父が仕えていた摂関家寄りの姿勢を見せていたが、義朝の基盤である相模国等が鳥羽院の知行国になるなど、東国において勢力を伸ばすには義朝が鳥羽法皇に接近する必要があり、それが摂関家に仕える父とは距離を置くという結果に繋がったとの説もある。そのため、義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが弟の義賢であるといわれる。またやがて義賢も嫡子の座を追われてその弟・頼賢が為義の嫡子の座についていたとの見解もある。
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