五分の星の場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 07:25 UTC 版)
また、現在の制度において7勝7敗1引分の際には勝ち越し・負け越しのどちらにするのかも明確にする必要がある。過去の例では、上下の力士の成績によって上げられる場合も下げられる場合もある。極端な例では、1941年5月場所西前頭20枚目で7勝7敗1分の清美川が翌場所東12枚目まで上げられている。当時は東西制の時代で、同じ西方の平幕中位~下位に負け越し力士の多かったことが幸いした形だった。逆に、同じ場所東21枚目で同じく五分の星だった八方山は同じ片屋の下位に勝ち越しが多かったため、翌場所西20枚目と1枚の昇進にとどまっている。 1955年1月場所初代若乃花(当時若ノ花)が東関脇で7勝7敗1分だったが、つづく3月場所では西関脇の地位だった。前場所西関脇で11勝4敗の大内山に東関脇を譲ったのは当然として、西張出関脇で8勝7敗の松登(3月場所も引き続き西張出)より下位には回されなかったということになる。ちなみにこの3月場所でも若ノ花10勝4敗1分、松登11勝4敗とやはり半星差で、翌5月場所では松登が東関脇にまわり、若ノ花は西関脇と逆転している(大内山は13勝2敗で優勝決定戦に出場し、大関に昇進している。)。 十両以上での7勝7敗1分の最後の例は1967年5月場所東十両8枚目の大文字で、翌場所は同じ東8枚目に据え置き。幕内での最後は1963年9月場所の東平幕10枚目大晃で、翌場所は西10枚目と半枚さがっている。 なお7勝6敗2分は過去に例がないが(昭和20年代の幕下以下も15番取っていた時期の幕下以下にも例なし)、1924年5月場所西前頭14枚目の若太刀が5勝4敗2分(当時11日制)で翌場所は西8枚目に昇進と勝ち越しの扱いを受けている。
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